
涅槃の扉の前で立ち止まった者
主な神様: 観世音菩薩
子どもが高熱を出した夜、母は眠れない。額に濡れたタオルを当て、手を握り、名前を呼び続ける。病院の廊下で夜が明けるのを待つとき、「どうか」と思う。何かに向かって。言葉もなく、ただ「どうか」と。その祈りが向かう場所が、台湾では多くの場合、観音様の前だ。 妙善という王女がいた。出家を望んだが、父は許さなかった。それでも彼女は諦めず、ついに父王は怒り、死刑を命じた。しかし振り下ろされた刃は、ひとりでに折れてしまった。死後、妙善の魂は冥界に降りた。そこで仏典を唱えると、花が咲いた。苦しみが消えた。冥界そのものが変わった。 やがて父王が大病に倒れた。「怒りを知らない者の目と手だけが薬になる」と告げられた。使者が訪ねると、仙人は目を差し出し、手を差し出した。薬が調合された。王は快癒した。そして仙人の素顔を見たとき、父は初めて娘を抱きしめて泣いた。妙善は恨んでいなかった。千本の手と千の目を持つ観音に変わっていた——届かないところまで、手を伸ばすために。 もう一つの言い伝えがある。観音はすでに修行を円満に終え、とうに仏となる資格を備えていた。だがその瞬間、世界の隅々から声が聞こえた。苦しむ声、泣く声、名前を呼ぶ声。菩薩は立ち止まった。声を聞いて苦しみを救うと願い、この世にとどまった。苦しむ人が一人でもいるかぎり、入滅しないと。 二つの話は別々の物語だが、台湾の人は同じ一つの感覚として受け取っている。誰かを助けるために自分を犠牲にした者の話と、全員が救われるまで自分の幸福を後回しにした者の話。観音は、どちらでもある。
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